The Focal Distance

若さとはこんな淋しい春なのか

東京(2021年3月)

f:id:kurage11:20210331125551j:image

上野公園。花見という民衆の娯楽を管理しようとする社会になってしまいました。


f:id:kurage11:20210331125622j:image

根津。小間物屋って最近言いませんね。


f:id:kurage11:20210331125619j:image

上野公園。


f:id:kurage11:20210331125558j:image

国立。駐車場のタイムズをつくる途中。


f:id:kurage11:20210331125555j:image

中目黒。


f:id:kurage11:20210331125605j:image

東新宿。


f:id:kurage11:20210331125615j:image

代々木。


f:id:kurage11:20210331125612j:image

代々木。跨線橋の上は柵が高くなっていて三鷹のようには景色を望みにくい。


f:id:kurage11:20210331125602j:image

大岡山、東京工業大学。こんなご時世ながら誰でも入れる様子。花見はできません。


f:id:kurage11:20210331125608j:image

新宿。映画の世界のようです。

文章にしがみついて生きる

どうにもならなくなると文章を書く。

気持ちが昂ぶって眠れない夜は文章を書く。

文章を書くことは、自分が何を考え、何を感じているのか自分で理解するための作業だ。マイナスの感情は特に、容易に処理できる形では現れない。ただただ発散していきそうになる気持ちを、悲しいとかつらいとか恥ずかしいとか悔しいとか情けないとか、できるだけ理解しやすい言葉に無理矢理落とし込む。後付けでもいいから理由も文章にする。そうすると、例えば「ああ、俺、周りと比べてうまく仕事をこなせないからつらいんだな」というように、処理しやすい形で認識できて、少し楽になる。その過程で捨象されてしまうものもたくさんあるけれど、仕方ない。感情を言葉に還元せずにそのものとして受け入れて処理できるほど、頭が良くない。

そのときの感情とはあまり関係ないことを必死に書く場合もある。いま書いている文章はわりとそれに近い。感情をそのまま書き留めておくのではなく、感情が手に負えないときに文章を書くということ自体を書いている。

気持ちをとてもじゃないけどうまく言葉にできそうにないとき、よくこの手法を取る。
どんな事柄であっても、文章を書くのはそれなりに頭を使う。暴れる馬に鞭を振るうとか、氾濫しそうな川に土嚢を積むとか、そういう行為に近いかもしれない。とにかく感情や思考が言葉として出てくるので、バックスペースキーを何度も押しては、より正確に言い表すことを目指して書き直し、なんとか納得できる程度に着地させられたら句点を打つ。その繰り返し。しばらく書いていくと、その前に書いた段落との整合性が気になってくるから、遡って直す。そんなことを続けていると、次第に心が安らいでくる。結構うまく言い表せたな、という心地よさと、考えや気持ちを自分で文章として理解できることによる落ち着きがやってくる。

だから文章を書くのは本当に、まず何よりも自分のためだ。
文章をブログに載せて他人の目に触れさせるのは、のちのち自分で読み返したときにわかるくらい、丁寧に言葉を連ねたいからだ。人に読ませるつもりで書いて、結局載せない文章も結構ある。自分がいまわかれば良いという感覚だと、その場しのぎの表現になってしまう。他人は、前提となる知識や考えや経験を共有していないので、もう少し丁寧に言い表そうと思える。将来の自分も実は、多くの場合それらを今の自分と共有していない。でも、他人が文章を読んで理解できるように書いても、誰かがそれを読むとしても、場合によってそれを面白いと思うとしてもやっぱり、他人のために書いているわけじゃない。結果としてそうなるなら嬉しいことだけど。

ときどき、文章に生かされているなあ、と思う。大した名文家ではないし、文章で食べているわけでもないけど、それでも(だからこそ)文章に生かされている。文章にしがみつくようにして生きている。だから文章もまともに書けないくらい憔悴してしまったら生きていかれないかもしれないけど、そのときのことはそのとき考えたいと思う。そうなったら踊ればいいんじゃないかなという予感もする。

noteに別れを告げた

noteに書いた文章のほぼすべてをこのブログに転載した。 依然としてnoteにも同じ内容の記事が重複して載っているが、しばらくしたらそれらの記事を、「以下の記事はブログに移行しました」という旨の文章に差し替えるつもりだ。

noteを使うのをやめた理由はいくつかあるが、端的に言うと、noteが悪いというよりはおそらく、単に not for me だったということに過ぎないのだが、つらつらと書くので、まあこういう考え方もあるんだなあ、ひねくれてるなあ、くらいに読んでもらえれば良いと思う。

続きを読む

清潔で正しい、理想的な社会の到来は近い

思っていることの半分もインターネットでは言えない、という感触がある。

私はそこそこいい大学の学生としてTwitterのフォロー・フォロワー関係を構築しており、現実には私の大学に通う学生はだいたいノンポリなのだが、それですらいまどきのやわらかいリベラル的な価値観をかなり内面化しているので、それに少しでも反するようなことを言えば立場がない。私は自分のことを、どちらかといえばリベラルだろうし、左翼だろうと認識しているのに、なおそう思っている。

だから、普段はごく少数の友人と直接話すときしか、とくに露悪的と思われることは言わないのだが、なんだかもう真夜中だしどうでもいいやという気分にさせられたのでこの文章を書いている。(書き終わってから鑑みると、これくらいのことは普段から言っている気もする。)

続きを読む

科学と瞑想

以下の記事はnoteから移行したものです。

 

一般に通用することなのかは知らないが、疲れているが故に眠ることができないという状態がままある。

昨夜もまさにそれで、翌日の予定を考えると少しでも眠りたかったので、体をできるだけリラックスさせようと小一時間ほどがんばってみたりもしたのだが無駄で、「寝たまんまヨガ」というアプリを入れて無料のコースを試してみた。

続きを読む

冬とオリオン座とスーパーカー

以下の記事はnoteから移行したものです。

 

年齢がひと桁くらいの頃はわりと天文少年で、同居していた祖母を連れて三鷹の天文台に遊びに行ったり、星座盤片手に公園で双眼鏡を覗いたりしていたが、その後ほかのことをたくさん覚えなければいけなくなるにつれて、星座などほとんど忘れてしまった。

僕が今でもなお認識できる星座のひとつがオリオン座で、冬を代表する星座だ。


続きを読む